【1.自己満足の忠誠など必要ない。】



「おい」
そう声を掛ければ天井から降って来る俺の従者、忍びである故に無駄な動作一つとして無いその身のこなしに俺は自分の最も近い忍びに置いて早8年。
肌寒い季節になったなあと思えば気がつくと羽織を手に俺の後ろに立っているような可笑しな忍びだ、気が利くのだが忍びとしてどうなのだろうと些か疑問である。

「茶」
一言告げればまた消える影。
拾った当初はこんなにも役に立つとは思っていなかった。
犬猫を拾うような感覚で人間を拾った所で城主の息子であった当初の自分には一人ぐらい従者が増えた所で構わないだろうという考えだった。

…だが、6年前に起きた俺のたった一言であいつは変わった。
否、俺が変えてしまったのだ。

「お待たせいたしました」
俺の後ろに降り立って、俺が振り向かないことに業を煮やしたのかあいつはわざとらしく声を出す。

何も返すことなく俺はただ奴の手から茶を受け取り、ぼんやりと外を眺めた。


あの日と同じ雨が降っていた。
あの時も、こんな風に嫌な天気だった。

丁度このような日に俺はあいつの名前を呼ばなくなった。
忍び頭であるあいつですら他の下忍共と同じように、「おい」という一言で呼び寄せるようになり、それでも態度を変えぬあいつに何度八つ当たりしたのだろう。

あの日、確かにそれまでは人間であったあいつは人の心を殺した。
俺があいつの心を殺したようなものだ。

元服したばかりの俺は、幼くして父と母を亡くし戦場に立った。
まだ成長しきらない未熟な体では戦場に立った所で守られているばかりで苛立っていた。
苛立っていたばかりに、口にしてはならぬ一言をあいつに当てつけたのだ。

「役に立たぬ者など要らぬ、我が手足になりたくばお前の里の人間を一人残らず殺して来い」

今でも鮮明に覚えている、あの時に口にしたあの忌まわしき言葉を。
あいつは昔から俺に恩義を感じていたのか言葉通りに命令をこなしてきて、誰よりも従順だった。
忍びの里から追いやられたあいつは、行く宛てに困り路頭を彷徨って飢えに苦しんだ所で俺に拾われた。

忍びらしくない笑顔で、「あの頃の景月様は光でした」とうれしそうに語っていた。

俺の残酷な一言に、あいつはきっとこのような仕打ちを受けるとは思わなかったのだろう、堪えるように顔を伏せて「御意」と小さく応えて去った。

帰ってくるわけないだろう、と思っていた、いやきっと帰ってこれるわけがない。

あいつの故郷である里は俺の居城から遠く離れており、致命傷を受ければきっと生きて帰れるわけがないのだ。
第一にあいつはあの頃忍びとして優秀ではなかったし、人を殺したこともなかった。
その甘さが、穢れぬような心が憎らしかった。

俺よりも三つか四つは上なはずなのに。
子供だったあいつが許せなかったのだ。


やがて俺の命令から二月立ち、春の陽光を遮るように分厚い雲が空を覆った。
深い土の香りと、草木が滴らせる雨水の香りが強く漂う―梅雨がやってきたのだ。

丑三つ時ともなる、月が天高く昇った夜のことだった。
音も無く俺の布団に何かの影が立った。

戦場から帰ってきたばかりの俺はやや気が立っていて人ならぬ禍々しい気配に一瞬で意識が冴え渡った。

「何者だ」

「主様」

障子からうっすらと流れ込む月明かりと、暗い中にようやく目が慣れてきたようでようやく声の主の輪郭がぼんやりと浮かび上がる。

「お前、」

「主様」

途端に部屋に立ち込める濃厚なむせ返る匂い。
ついこないだの初陣の時に嗅ぎ、気の狂うような錯覚すら覚えたその匂いは―…血だ。
紙で切り裂いたような薄い赤のような物ではなく、人を殺めるべくして流した血の濃い香りを纏った忍びは二月前に残酷な命令を言い渡したあの幼かったはずの忍びだった。


「主様、任務を果たしました。ご報告を」

従者らしく顔を伏せたまま深く跪いた。

本当にこれがあのやんわりと笑っていたあいつなのかがわからなかった。
信じられなかった。
あの礼儀作法なんてほぼわかってないんじゃないかというぐらい呑気なあいつが、こんな真似をするとは思えなかった。
そして何より、死ねと命令したようなもののはずがこんなにも無傷に近いような見目で帰ってくるとは思わなかったのだ。
亡霊か何かの類じゃないのかとか、はたまたどこかの刺客なのではないだろうかと勘繰る頭が警鐘を鳴らし続ける。

「面を、上げろ」

震える声に我ながら情けないと思う。
ゆっくりと顔を上げた忍びの顔は、確かに命を下したあいつだった。

「無事だったのか」

するとあいつは困ったように眉を八の字にして笑った。

「主様、これで私も貴方のお傍に置いていただけますか」

私を手足のように扱っていただけますか、と言い捨てた。

―お前に死ねと命じたようなものなのに、何故そこまでしてお前は俺に仕えようとするのだ。
そう聞きたかった。
聞けなかった、その答えを聞くのが恐ろしい。
初陣の時、人を殺めるのに似たような狂気を感じた。


その夜からだ。

やんわりと笑って俺を叱っていたあいつがいなくなったのは。
忍びという役職でありながら穢れを知らぬ真っ白な笑みをなくしたのは。
俺を景月と呼ばなくなってしまったのは。

―そして、俺があいつの名前を真名で呼ばなくなり、葛葉と呼ぶようになったのは。






【2.それ以上言うな。お前を側に置けなくなる。】



あいつは心を殺したが、根本は何一つとして変わっていない。
何よりも俺の命を優先し、絶対的な服従心。

信頼を置いてないと言えば嘘になるが、かといって全てを預けるほどあいつに傾いた覚えはない。


「主様」

「…」

「文が届いております」

「何処からだ」

仕方なしに執務をする筆を止めちらりとあいつを一瞥すれば顔を伏せたまま跪くいつもと変わりない姿がそこにある。

「隣国である鳩羽殿からで御座います」

またか、とため息を零す。
用件は文を読まずとも予想はついていた。

「用件だけ読め、前書きなど要らぬ」

「…鳩羽殿の息女、由姫様とのご婚約について色よいお返事を、との事です」

「…はあ」

わざわざ筆を止めるまでもなかったな、と目の前に広がる書物やら文机を眺めて思う。
本当にくだらない。
ようは夫婦の仲にし、血縁ということで同盟を押し付け俺の国を味方につけたいだけなのだろう。
田舎の国とは言え、そこそこ名の知れ渡るようになった俺の名前を持ち出して何かやらかそうとする魂胆が見えている以上、乗り気ではない。
…例えそれが幼馴染の姫君であったとしてもだ。

「如何なされますか」

「文を出せ、3日後に従者を出して我が城でもてなそう」

「…御意」

無駄口を叩かないあいつの、何か物言いたげな雰囲気がじわりじわりと侵食してくる。
従者である限り口答えは無用、そう思っているのだろう。

「…なんだ」

「無礼を承知で申し上げます、主様は今回の婚約を了承されるのですか」

抑揚のない真っ直ぐな声が突き刺さる。
耳ではなく、心に。

「忍びには関係のない事だ」

「主様っ、」

押し殺したような声を聞いて思わずあいつのほうを窺った。
ここ何日も声や姿を見ているものの、一切として顔を見なかった為か何年も顔を見ていないような感覚に陥る。

「私は、」

聞いてはいけない。

「私は主様が―、」

これ以上聞いたら、

「誰が顔を上げて良いと許可した、無礼者」

重ねるように発した自分の声は、自分の声と思えないような冷たい色を含んでいた。
その言葉にはっとしたように我に返ったのかあいつは小さく「申し訳、御座いません」と言い残し再び現れた時のように去った。

空は澄み渡るほどの浅葱色だった。
だがしかし、心の中は薄暗く汚く淀んでわだかまりがごろりと転がっていた。





【3.お側にいられるだけでいいはずでした】



私が里を追いやられてもう何年も経つ。
葛葉の里、管狐を使役し呪いや忍術を基本とする一族の里の生き残りはもう私だけになった。

あの頃の私は恥ずかしながら忍術も管狐も嫌いで人を殺すことが怖かった。
使えぬ忍びは里の者の手によって始末される、それが里の掟で全てだった。

命からがら里の忍びの手から逃げ、ようやく撒いたと思えばそこは雪が深く積もる決して都とは近くはない地であった。

簡易携帯食も底を尽き、川の水やら狩りで騙し騙し命は繋いでいたというものの、やや北のほうに来た為か凍えるような寒さに体力は日に日に奪われていった。

ぼろきれのような体を引きずり、深い生い茂った森を抜けてようやく人の通るような道に出た瞬間大名行列に轢き殺されそうになった。
私もさすがに悪運も此れまでか、と笑いを零した。

だがしかし、その大名行列は寸前の所で止まり、浅葱色の着物を着た小さな子供が私に手を差し伸べて小さく笑ったのだ。
それから、私は若様付きの忍びとなった。
未熟な忍びであるというのに、若様はそれを許してくれたのだ。

里の教えの一つに、忍びは一人の主君に仕え生涯主君ただ一人のために生き、主君のために最期を遂げると教わった。
学んだその頃は誰かのために生きるなんて、誰かのために死ぬなんてまっぴらだと思っていた。

でも確かにこの方の為になら命を投げ捨てても構わないと、そう思えたのだ。

恩義もある、だがしかし何よりも半端で未熟な私のような忍び以下の者にだって優しくしてくれたあの心を守りたかった。


けれど、それは叶わなかった。


若様が元服をする前に若様の父上は戦場で討ち死にし、母上様は病で亡くなられた。
やがて若様が元服すると早くも城主として生きることになったのだ。

覚悟もままならぬまま、若様は戦場に出られた。

初陣に出るという一言を聞いた時に肝が冷えた。
忍びという役柄でありながら、私が若様に命ぜられる事は女中でも出来るような簡単な命令ばかりで後ろめたく思ってはいた。

今回のことでそれは連なるようにしてどうしようもないやるせなさが胸に圧し掛かる。

若様が戦場に出るというのに、忍びである私はこの城の留守番なのだ。

半月後、初陣から無事に帰ってきた若様を見て私は涙が出るほど喜んだ。
若様はそれをちらりと見るだけで何も言わなかった。

返り血を浴びた小さな甲冑を脱ぎ捨てる若様を手伝いながら、私は若様に話しかけた。
でも、若様から返ってくる言葉はどれも素っ気無い言葉ばかりで肩を落とす。

私の態度や表情は忍びらしくない、と前の若様は笑ってくださっていた。
忍びの修行もおろそかにして、忍びとしての根本をわきまえていないだけなのだ、本当は恥じるべき所だったはずなのに若様に笑ってもらえただけで嬉しかった。


沈む私を見ていたのか、若様は口を開いた。

「お前のような民草を我が城に置いたのだ、誠意で払え」

「役に立たぬ者など要らぬ、我が手足になりたくばお前の里の人間を一人残らず殺して来い」

あの優しかった若様は、人の心を殺された。
初陣によって、四肢を失うことはなかった。

その代わり、あの方は心を殺されてしまったのだ。

悔しかった、無力で弱い私はあの優しかった若様の心を殺してしまった。
初めて守りたいと、心から仕えたいと思えた、それなのに。

ギリギリと歯軋りをし、唇を噛み締めて「御意」と告げた。
若様は相変わらず冷たい目をしていた。
凍えるよなこの地のような凍てつくような凛とした目。

強くなりたい、強くあろう。

そして若様を守り続けよう、その為ならば。
かつて私の里であったあの里だって滅ぼしてみせよう。

若様に出会った頃の忍び装束はもうすでに処分してしまったので、若様に頂いた真っ黒の忍び装束を大事に着る。
長に渡された5本のクナイと忍び刀を隠し持つように袂やら襟に忍ばせて、夜を待った。

里に行く道も、もう帰り道ではない。
けれど忍びの本能だろうか、地図を見ずとも行くべき道はわかっている。
寝ずに千里の道を駆けて6度目の朝日を拝んでようやく里の入り口までやってきた。

里の少し奥長い平屋、あそこにかつて私は住んでいた。
親はとうに死んでいる。
親代わりに育ててくれていたかつてのお姉さんも皆戦場で亡くした。

それでも心残りがないわけではなかった。
かつての友人や、恩師もたくさんいる―けれど初めて頂いた"忍び"としてのご命令なのだから。

クナイを握り締め、忍び刀を逆手に構える。
殺気を殺し気配を消し、再び夜を待つ。

一人目は、誰かもわからない里の女だった。
交友関係は決して広くも深くもなかったので当然といえば当然である。
ずぶりと刃が人に刺さる感触で嘔吐しそうになる。
悲鳴をあげられる前にクナイでのど笛を掻き切ると小さく自分が震えてることに気がつく。
生温かくぬめった血の感触にこれが人を殺すっていう感覚なのか、とぼんやりと考えた。

かつて人だった亡骸をごろりと森に転がし、暗器を全て回収し再び里の中に沈んでいった。

二人、三人、四人…しいては十余りまで行ったところで里の異変に気づいたのだろう、上忍達が夜空に鳥を滑空させ管狐を徘徊させ始めた。
ある程度の人数は減らしたのだ、少しずつ殺していくのも時間の問題だろう。
竹筒に入れた真水で舌を湿らせる程度に飲み、これから相手にするだろう恩師達を頭に描く。


気がつけば体の震えは止まっていた。


何人何十人殺したのかはわからない。
侵入者を捕獲するべく大勢の忍びに囲まれ、仕方なしにかつて覚えた忍術を使い一人ずつ命を奪う。
何も考えることはない、何も思うことはない。
それが忍びのあり方であり、生き方である。
忍びは道具だ、というのは自らを守る為なのだろう。
ようやく気がついたのだ。

応援にきた数人を下忍達を急所だけ狙って自分の体力を削がないように切り裂く。
最後の一人になり、顔を見ればこの里での唯一といっていい程少ない顔見知り。


「××、お前死んだはずじゃ…」

それを言ったが最期、元友人は構えていたはずのクナイを投げることもなく地に伏せた。
絶命した彼の目は恐怖の色を模していた。
そういえばいつだったかに彼は『忍びたる者慢心することなかれ』だとか『忍びに言葉は要らず』とか堂々と言ってたなあと思い出す。
ほんの少し胸が痛かった。かつては笑いあっていたはずの仲間だった。

「××、忍びらしくなったな」
「…」

気配を感じて咄嗟に平屋の屋根に降り立った。
友人の亡骸の横には昔私の師をしていた長がいた。

「あの当時、お前がちゃんとやってれば継の葛葉はお前だったはずなんだ」

「…」

「本当に勿体無い事をしたものだ」

葛葉の里を統べるは何代も続く葛葉という人間只一人。
長になれば必然と今まで名乗っていた名を捨て葛葉と名乗るようになる。

そして目の前にいるこの男こそ里の長、葛葉であり我が師でもあった。

「さあ、殺すなれば殺せばいい」

そしてお前は葛葉となる、それを言葉で聞くのが嫌で喉笛を切り裂いた。

唇で何を言いかけたかぐらいわかっていた。


ずしりと重い音が生を無くした里に響いた。
もうこれでこの里には生き物はいない。

…帰らなくては。
そう思うがどうも体が思うように動かない。

さすがに無傷で里の全員を殺すことなど出来ず、あちこちに受けた傷跡が緊張の糸が切れた瞬間に痛み出す。

血が足りていないのだろうか、ふらふらと足元がおぼつかなかった。

それでも帰りたかった。
帰って、早く若様の顔が見たい。

これで認めてもらえるだろうか、葛葉の名前を受け継ぎ命令通りに里を滅ぼした。

いつかまた昔の若様のように笑いかけてくれるならなんだってするのに、そう思いながら若様の居る城まで走った。




【4.忠誠が愛に変わったところで誰が気づきましょう】


行きよりも早く城に戻ってこれたこどを安堵して、若様の居る部屋の屋根裏にひっそりと佇む。
相も変わらず若様の寝顔はまだ幼くて、なんだか嬉しい。
起こさないように間近で顔を見たかった。
それも叶わぬようなら仕方あるまい、と腹をくくって音もなく若様の布団の真横に降り立つ。
ぼんやりと月明かりが若様の顔を照らし、何処となく儚く見えた。
近くにいないと消えるような、このまま月が沈めば若様まで連れてかれてしまうんじゃないかという我ながらしょうもない考えで思わず若様の顔に手を伸ばした。
触れようとした瞬間、若様の起きるような気配がし、咄嗟に身を引いて顔を伏せた。

若様はひどく驚いていらっしゃった。
それが例え私が死んで来いという命令で生きて帰ってきたことだとしても、私は嬉しかった。
若様の思考を今だけは独占できることが、妙な優越感に浸れたのだ。

それからのことは上の空だった。
頭の中に過ぎるのは若様、否主様のことばかり。
まるで恋でもしてるみたいだ。


例えどんな扱いであっても、例えどんなにあの目に私を移してくれても構わなかった。

それでも、傍にいたいとそう思った。
何も見返りは要らない、ただ傍にいて尽くしたかった。


それが忠誠ではなく、愛だと知るのはあの頃にはまだ早く、今の頃になっての事だった。





【5.俺はお前を利用するかもしれない】


幾度目かわからないぐらいの数多の戦場を越えてきて、今回の勝ち戦かと重みを感じる刀を振り上げる。
俺の背中越しに感じるのは腹心の忍び、とは言い難いが俺に最も近き忍びである。

「主様、」
「わかっている」
「こちらは私めにお任せを―」
「…」
ずらりと並ぶ足軽兵の数は数十程で、結構な戦力を削いだだろう。
将と名の付く者達は今頃は部下達の手によって事切れていることを考え、頷いた。

―狙うは後はただ一人、敵の総大将のみ。


「…もう来たのか、早いものだ」
「…率直に申し上げよう、傘下に下るかこの場で死すか―」
戦場を馬一頭で走りぬけ、敵本陣に向かうまでに何人の阻害兵を切ってきたことだろう。
振るう刀は血脂を吸い、ぎらりと赤く光る。
陣の中で只一人の生存者は最早総大将だけとなるのに動揺の一つすら見せぬこの男は恐らく俺には下るつもりはないだろう。

「―わかっているのだろう、己が貴殿に下らない理由など」
「そうか…」
無駄口は無用。
刀を構えた男は間合いを取り張り詰めた空気に変わる。

踏み込まれた一撃は重く、受け止めた手首はびりびりと痺れ出す。
―なんと力強い一撃だろうか。

「随分な余裕だ」
「そうでもない」
歌舞伎で出るような悪者の笑みを含み再び構えなおした男は息一つ乱さない。
久しぶりに強き者と刀を交えることが出来るのは心が躍るが、何せ相手は悪名高い武将。
このまますんなりと刀を交えて首を取ることは難しいだろう。
奥の手には奥の手を、切り札は最後まで見せない。
策を練りに練った戦を行ってきた策士だ、恐らく何かあるはずだ。

「あぁあああああああ!」
「く、」
怒号と共に貫くようにきた刀は首を掠めた。
微量なりと血が流れ熱く燃え滾るように首が脈を打つ。
こちらが体制を整える前に再び重い一撃がやって来た。
―このまま攻撃を受け止め続ければ肩を壊すだろう。
受け流すにも分の悪いこの状況下、どうしたものか…。

「ご自慢の剣技は見せていただけないのかね?」
「…」
じりじりと間合いを詰められる。
後ろに何かいる、確かに感じた。
押し殺したような気配、忍びの者だろうか。

「余所見をするとは随分甘く見られたものだ!」
「な、」

―反応が遅れた。
咄嗟に急所は避けたものの、脇腹を横に掻かれた傷は出血が酷ければ死に至る。
…不味い、時間は余りかけるわけには行かない。

刀を強く握り締め、男を睨む。
元々余り体力のある方ではない、あわよくば生け捕りと思っていたが今はそんな悠長な事を言ってられる場合じゃなくなった。
音を立てて踏み出し、片手で男の一撃をなぎ払うとそのまま首を貫こうとした。

「主様っ」

真横から突然の襲来に驚きと焦りが立ち込める。
なぎ払った体制のまま、襲い掛かる黒頭巾の忍びに対して払い落とせるほどの間合いはもう無い。
黒頭巾が忍び刀を抜き胸上に構えた、ああもう駄目かもしれないなと隠し切れない自嘲の笑みが口元に浮かぶ。

「な、になさってるんですか、」

諦めて目を閉じた、その直後に鳴り響いた金属音。
再び応じるようにして高く切りつけるような音を最後にそこから音は一切しなくなった。

「主様、」

「いやはや、感無量。貴殿は素晴らしい腕の忍びを飼い馴らしているようだ」

目の前にはすでに絶命した忍びと、先ほど幾度とも刀を交えた男が葛葉―、否あいつの手によって動きを封じられている姿。

しかし、無傷とは言い難い葛葉の姿に眉間が寄せられる。


「主様、この者は如何なさいますか」

いっそこの手で殺させてくれ、とあいつの目は爛々と輝いている。

「ふふ、ハハハハハっ、実に良い忠義心、従順だな。まるで犬のようだ」
「黙れ」
ギリギリと歯軋りをしながらクナイを奴の首にこれでもとかといわんばかりに押し付け俺の指示を仰ぐ。
恐らく俺がこのまま返事をしなければ"待て"が出来ずにあいつは殺してしまうだろう。

「…捕虜として捕らえる、手配しろ」
「…御意」
些か不服そうだが良しとしよう、あいつの部下が何人がようやくこちらに追いつき、縄で何重にも縛り上げるとそのまま帰城するよう命令を下した。

「影月殿」
「…何だ」
「今は亡き葛葉の里の忍びか、あの忍びは」
男の視線の先を追えば、黙って俺の横に佇むあいつの姿。
それに無言で肯定の意を告げると再び男は口を開く。

「アイツはどんなにお前が要らぬと言っても着いて行くだろうなあ…例えアイツが先に事切れたとしても冥界の果てから追いかけるだろう。それだけ執着が強い男なんだ…厄介な家臣を持ったな」

可笑しい可笑しいと言いながら男は三人の忍び達の手によって連れて行かれた。
それを見送り、再びずしりと重い痛みが脇腹から響く。

「…主様、手当てを」
「…頼む」
あいつの持つ薬草やら薬の類は優秀だ。
塗り薬は肌を引きつらせるような沁み方をするが膿むこともなく傷は治り、飲み薬は舌が痺れ上がる程の苦味を持つにせよ、確かによく効く。
この命は何度あいつによって救われただろうか。

「…お前の手当ては、」
しないのか、そう言い掛けた所であいつの口は真一文字に結ばれ脇腹を手当てする手が止まる。

「…私はいいのです、それより―…」
「なんだ」
「あの男が申した事は気にならないのですか」
「…戯言を」
「一つ、ご報告があります。一度別れられた後に残兵と思われる敵将一人を発見し、始末しました。その男も私のことを同じように申し上げております」
「だから何だ」
再び沈黙の帳が落ちた。
手が止まってる事にはっとしたように気がつき、慌てて薬を塗り始める。

「…私は、いつか主様の妨げになるのでしょうか」
「…」
「恐ろしいのです、いつか主様が私を必要としなくなる日が来るのだと思うと」
どんな形であれ、忍びを必要としなくなる時代がくるのは確かだろう。
しかしあいつの言い方はそれではなく、俺自らが手放すことをするような物言いだった。
「もし、俺がお前を要らなくなったその日は―…」
こんな言い方をすれば、あいつの気持ちを利用するようなものだとわかっていた。
わかっているが、使うしかないのだ。
「俺の死ぬ時、その時のみだ…覚えておけ、くだらない質問に二度は応じない」
こうやって繋ぎ止めるしか、俺には出来ない。
びくりと肩を揺らしてあいつはこちらをちらりと見てはにかんだ。

まるで、あの頃の笑い方のようだ、そんな風に思って凝視する。
これ以上の会話は無用、とでも言うようにあいつは黙るが纏う空気は先ほどよりも穏やかで、つい先程まで数多の兵士を切り刻んだ忍びとは思えないほど柔和なものだった。



【6.どうして貴方が泣かれるのですか】



主様の命通り、いくつかの書状を各地の大名の元へ送り届けようやく主様の待つ城に帰れると思うと普段は微動だにしない心が大きく高鳴る。

ついこないだまで戦場に立っていたことも忘れるような穏やかな空気が漂う国、はたまた戦だ、血だと憤り兵を奮い立たせる為に怒声を響き渡らせる国と様々な国を巡ったがやはり私はどんな国よりも主様の傍が一番いい。
どんなに富国と呼ばれようとも、どんな俸禄を積まれようとも主様以外の主は考えられないのだ。

深い森を駆け巡る足が止まる。
―二、三人、いやもっとだ。

忍びという職業柄、追っ手は付き物ならしい。
ただ書状を届けにいくだけだというが、子供のお使いのようなものとはいえど命の危険も勿論ある。

この森を抜ければもう主様の国だというのに、面倒なと舌打ちを一つ零すと、鎖帷子の下衣に忍ばせたクナイに手をやる。
体温をわずかに吸収した生ぬるいクナイがずしりと手のひらに感触を覚えさせ、妙な安堵感を抱く。

―なんだか、妙な胸騒ぎがしたのだ。

命の危機と言うほどのたいそれたものではないが、命の保障は無い。
今まで数多も命を落としかけたが、それでも不安は拭い切れないのだ。

追っ手たちは私が足を止めたのを感じ取り、数人が私の元にじりじりと近寄ってくる。
まだ姿こそ見えないが、気配がだだ漏れだ。

これは姿を見たら忍びに向いてないぞ、と笑い飛ばさずにはいられまい。

じわりじわりと和紙に墨を落としたような侵食。
不安、恐怖、悲しみ、失望、どれでもない何かが私を侵す。

―囲まれた。

円を囲むように追っ手たちはものの数秒ほどで私を取り囲んだのだ。

…不味い、これでは何処から攻撃の一手が来るかわからない。
久々に身に沁みる己の失態に再び大きな舌打ちが森に響いた、その時。

「、くっそ」
右からの突然の攻撃。
それを合図に矢継ぎ早に繰り出されるクナイが宙を舞った。

「は、っはっ、」

重く圧し掛かる死という文字が脳裏にじわりと食い込んだ。

まさか、と笑い飛ばそうにも不安は吹き飛ばない。

どこから来る…?
忍刀を左手に、クナイを右手に構え草木の生い茂る中に身を潜める。

…左に来てる。
まだまだ経験の浅い下忍といったところだろうか、押し殺されていない殺気に苦笑する。

手首を鞭のようにしならせてクナイを放つ、ひゅっという喉が潰れた音と共に一人が命を落とした。

仲間一人を失って動揺したのか再び数人の忍びが散り散りに四方を塞ぐように立ちはだかる。

「…答えろ、どこの忍びの者だ」

「…」

「仲間一人亡くしたところで動揺して出てくるとは忍び失格だな」

忍び刀を再び構えてクナイを隠し手に持つ。

…どうやら本当にまだ経験も愚か年齢すら重ねていない忍びなのは確かなようだ。

一人目、二人目、と忍び刀一本でなぎ倒していく。
的確に急所だけを狙い、なるべく体力を温存させる。
卑怯なのは忍びの基本だ、いつ隙を狙って後ろからぶすりと刺されるのかわかったもんじゃない。

ずしりと腕が重く鈍る。ようやく終わったか―、と疲労の重なった身体が悲鳴を上げるようにみしりと音を立てる。
ため息を小さく付くと、ふと視界に入った鈍色…まさか―。

ぐち、びりり―。

「っな、―っはあ…!」

まだ一匹、木の上に潜んでいたのだ。

咄嗟に後ろに飛びのいて急所は外したものの、つんざくような肉の抉れた痛みに声が上がる。

―情けない、油断したか・・・

一撃でも与えられたのが悔しい。
ギリギリと歯軋りがむなしく森の中に響く。

上忍はもうこの場にはいなかった、分が悪いと悟ったのだろう賢い選択。

追いたい所だが如何せん報告が遅れる、もやもやと暗雲に包まれた心中の中帰路を急ぐ。

気がつけば空はどんよりと雲泥が掛かり、今にも空は泣き出しそうな表情だった。
空気は湿気帯びた雨の前の独特の香りが漂う。

この傷でこのまま雨にやられるのは不味いなあ…と思いつつもせわしなく動く足を止めるつもりは毛ほども無い。

―早く、早くあの人の顔が見たかった。
あの人の顔を見て、安心したかった、声が聞きたかった。


「は、っは…」

息がやけに乱れているな、そう気がつくのには遅すぎた。
少し疲れているだけだと、そう思っていた。

懸念すべきはそこではなかったのだ。
忍びの道具には毒を塗る事が多い。
ましてや相手は上忍、抜かりは無いだろう。

「く、っそ―」

今もはや手持ちの薬草や毒抜きの薬などはすべて使い切ってしまい、あとは止血止めのみ。

ぐらりぐらりと揺れる視界の中、我が主の城の門前までようやくたどり着いたと思ったその時、視界は徐々に歪んでいき、ふわりふわりと吸い込まれるように目を閉じた。



【7.それ以上言うな。お前を側に置けなくなる。】

―他国への使いに出したあいつがようやく帰ってきた。
随分あいつにしては時間が掛かっているな、と少しは疑問に思った昼下がり、大慌てで城の下男達が城に仕える医者を連れ出した時の事だった。

「―葛葉殿が、帰城なされました。瀕死の重傷を負っており只今医師が看護の下急いで治療を行っている模様です」

「そうか・・・」

下がれ、と一言告げるとすぐに消え去る影。
この城には下男も含み、ただの人間など居ない。
城主である俺以外は全ての人間が忍びだ。

今もきっと頭を抱え込み脇息に凭れ掛かった滑稽な姿を天井で見ているのだろう。

・・・馬鹿らしい。

たかが忍び一匹、亡くした所で俺には全く害はない。
城主であり国主である俺が死ぬならまだしも、忍び風情の死が民に伝わることもない。

…なのに何故こうも心は大きく揺れているのだ。

あいつが死んだとしても、それはあいつの力量不足だったそれだけのこと。
元々優秀ではない忍びの限界だった、そう諦めればいいのだ。

そう頭で理解しようとするが心は納得してはくれなかった。

勢いよく文机を押しやった。

執務なんてもう知るか、と心の中で悪態を吐いた。

あいつが俺の目の前以外で死ぬなんて許さない。
俺が死ねと言うまでに死ぬのも許さない。

我ながら飽きれる独占欲だ。
まるで子供のようだ、お気に入りの玩具が壊されるのを嫌がる子供。
どうせ自らの手で壊してしまうというのに。

廊下を走り抜ける。
俺が走っているのが珍しいのか多くの視線が俺を追いかける。

廊下なんか走る馬鹿はこの城には居ない筈なのにな、ああそうだな今の俺はきっと馬鹿なんだ。
馬鹿になったんだ。

全部全部あいつのせい。
あいつが俺の心を乱したからだ。

医務室のつんと匂う漢方薬や苦々しい薬草の香りが鼻を貫く。
勢いよく開け放たれた襖が悲鳴を上げてみしりと軋んだ。

「若様」
「・・・あいつはどうなった」
咎めるような視線もお構いなしに言葉を紡ぐ。
真っ白なせんべい布団に寝かされたあいつの顔色は蝋のように真っ白で、息をしているのかもわからない。

「・・・申し訳ございません、まだ意識が戻らず・・・」
「そこをどけ」
「え・・・?」
「そこをどけと言っている!今すぐにこの部屋から出よ!」
年老いた医者は困惑したように何度か瞬きして、それでは・・・とつぶやいて部屋を出た。
それを終始無言で見届けると、大きな足取りであいつの眠る布団の近くに寄る。

思えば俺はあいつの寝顔を見たのは初めてだった。
いつもいつも俺の護衛に身を費やし、命令とあればすぐにでも俺の部屋の上から降りてくるような奴だった。
あいつの、葛葉の私生活のことなど一切知らない。

痩せこけた葛葉の頬にそっと触れてみる。
骨の浮き上がった、冷たい皮膚がまるで死人のようでぞっとする。
こいつは、生きているのだろうか。
心臓の近くに手を当ててみた。
とくん、とくんと僅かながらも小さな揺れを感じた―・・・ああ、良かったまだ生きている。
ほっと胸をなでおろし、手を引こうとしたその時だった。

「なにを、なされているのですか」
俺の手首を葛葉が掴んだ。
焦点の合っていない虚ろな目が俺を見上げている。

「起きていたのか」
「・・・いえ」
「身体は」
「もう、大丈夫です。それよりも主様、このような草の者になど貴方様が触れてはなりませぬ」
そう言うと慌てて葛葉は俺の手首を握っていた手をやんわりと外した。
肘をついて起き上がろうとする葛葉を手で制した。

「もう寝ろ。無事ならそれで構わない」
「主様・・・」
物言いたげな葛葉の視線に耐え切れず、思わず視線を反らす。
踵を返し襖に向かおうとするがそれはあえなく阻止された。

「・・・なんの真似だ」
「あの、」
引っ張られた裾はそのままに、じろりと睨み付ければ視線はかち合う。

「わたしは、」
ダメだ。
「わたしは、主様が」
言わせてはいけない。
「あいして、おります、だから―」
「黙れッ!」
「あるじさま、」
沈黙に孕んだ怒気に葛葉は口を噤むがそれもまたこじ開ける。
「あるじさまは、何を怖がっているんですか」
「黙れ黙れ黙れ!―殺すぞ」
葛葉の忍び刀は枕元にある。
それを確認するように葛葉は手元に手繰り寄せると、俺にやんわりと微笑んで握らせた。
「どうぞ」
「…」
「それで主様の気が済むのであれば、私は喜んでこの身を差し出しましょう」
でも、と奴は続ける。
「愛されるのが怖い主様を、愛せるのは私だけなのが心残り」
「自惚れるな」
「いいえ、確信でございます故」
現に貴方は私を殺せますか。
食った顔をして物を言う表情が気に入らない。
忍び刀を葛葉に押し付け、逃げるように部屋を出た。

―あいつが無事だと知っても尚、頭の中をあいつがぐるぐると占領しているのはあいつが挑発したからだ。
今日の執務はいつもより筆が進まなかった。




【8.その言葉、どちらの意味かは聞かないでおく。】


ああ、言ってしまった。
後悔後に立たずとは言ったものだな、と苦い汁の飲む。
熱に侵された頭はぐらぐらと揺れ、熱ではない確かな火照りが頬をじりじりと熱くする。
先ほどの主様の表情を思い出した。
冷徹でいつも無表情のはずの主様が動揺した。
私の一言によってその仮面が崩れた、それだけで・・・何よりも私の元へ訪れてくれたことが嬉しかったのだ。

駄目な従者だな、と罪悪感が胸を締め付ける。

身体を起こそうとするにも力が入らず、役に立たない身体に叱咤しながら無理やり起き上がらせる。
主様が居た時はあんなにすんなりと力が入ったというのに・・・身体まであの方の物か。
嬉しいのやらなにやら複雑な気持ちで握りこぶしを作る。
じわりじわりと体中のあちこちから痛みは滲み出るが構わない。
立ち上がろうとしたその瞬間、がくりと視界は崩れ落ちた。

「なんてこった・・・」
忍び頭ともあろうこの私が、熱ごときにここまで追い込まれるなんて。
先ほど見たばかりの主の顔が浮かぶ。
会いたい、一瞬でもいい、どれだけあの方を見てもどれだけあの方の近くに居ても足らない。
私があの方で満ち足りることはきっとない。
ああつくづく馬鹿らしい、私は早く今すぐにでも、この一瞬ですらもあの方の顔が見たいのに。
何故こうも身体は言うことを聞かないのか。
ぎりぎりと歯軋りをしながら腑抜けな腰に渇を入れる、この分じゃ天井裏にも潜れないだろう。
失態を犯してあの方に迷惑を掛けるのは御免だ。
這い蹲るようにして渋々布団に戻った。
身体は呆気なく疲労と睡魔に身を委ね、ぼんやりとあの人の表情を脳裏に浮かばせながら意識は沈んでいった。

そのすぐ後に、襖が開かれて誰かによって葛葉の枕元にある忍び刀と寄り添うように懐刀が置かれたことも葛葉は知らない。



【9.貴方を裏切る私をお許しください】


葛葉と少し話した後、激昂した俺は一度部屋を後にした。
もう二度と見舞いなんかしてやるもんかと憤慨した覚えもある。
―しかしそんな決意も長く続かず、医務室から鈍い音が響いた瞬間衝動的に筆を止めて動いてしまった身体を責める事は出来なかった。
一体あいつは何をやっているんだ―・・・、呆れ混じりに襖を開けた時奴はすでに褥に入り寝息を立てていた。
人の心配も露知らず呑気なもんだと大きくため息をつく。
再びあいつの布団の脇に座り込み、奴を観察することにした。
疲弊が浮かんだ真っ白な顔に、大きな隈が二つ痩せこけて頬骨が浮いてしまっている。
折角の美男もこれじゃ台無しだな、と苦笑いする。
激務を促しているのは自分だというのに。

「あ、るじ・・・様」
「・・・」
起きているのか、と尋ねようと開いた口からは声は発されることはなく終わった。
なんだこいつ、寝ても覚めても俺のことしかないのか。
呆れるぐらいの忠誠心、であったらいいがこいつの場合はそれだけではない。

知っている・・・否―、察していたのだ。
随分前からこいつは俺に対して憧憬や忠誠心とは違った感情を交えて接してくるようになった。
勿論最初は見ない振りをした、だが近来そうもいかなくなったのだ。
元々忠義に篤く俺の命令には絶対服従の精神であった為他の者達に察せられる事は無かっただろうが、問題の元である俺には明らかに違和感を感じていたあいつの生ぬるい感情。
俺直属の部下は気がつけば葛葉一人になり、忍び頭と城主護衛の二足草鞋という状態になっても尚俺の傍に居ることを望み何よりも俺に時間を費やしていた。
休みを与えれば必ず俺の命令が聞こえる位置に居て、いつでも鼠が入っても殺せる位置にいる。
それがあいつの当たり前であり俺の非日常だった。

「あるじさ、ま・・・」
魘されている、また熱が上がったのか。
そう思い葛葉の額に手を宛がう、じわりと熱が手に染み渡り高熱が出ているのは間違いなかった。
これはまた医者を呼んで解熱剤でも作ってもらうしかないな、と再び腰を上げる。

せめて救いようの無い葛葉の思いも、俺の気持ちも病もこの刀が守ってくれれば―、なんて意味のない願掛けをして思わず懐刀を葛葉の忍び刀の隣に並べてみた。
静かに襖を閉めて、目を閉じた。

「ある、じさま、あいし、てます―・・・」

襖越しにいた彼には、聞こえていただろうか。




【10.言ったはずだ。二度目はないと。】
葛葉が通常任務に戻ってから一月程経った頃の事だ。

「茶」
相変わらず二言三言で終わる命令も、影のように寄り添う葛葉の姿も変わらない。
これがずっと続いていくと俺は信じていた。

「今、なんと・・・?」
「お暇を頂きたく思い」
執務も一段落し、ぼんやりと縁側で鳥達の囀りに耳を傾けていた時のことだった。
話をしたい、と葛葉から声を掛けてきたのは。

「どういうことだ」
「・・・お答えすることはできませぬ」
「言え、命令だ」
「・・・」
口を真一文字に結ぶ葛葉は頑なに理由を話そうとしない。
もういい、去ね―・・・そう告げると影は瞬く間に消えた。
我慢比べに負けたのは俺だった。

去ねと告げたのは何時のことだったか。
辺りは一面の黒を差し、夜がやって来た。
あれから葛葉は姿を現さない。

まだまだ期限の余裕もある書類を手持ち無沙汰になった俺は片付け始めた。
元々執務が好きではない俺が好意的に書類に手を伸ばす時など滅多に無いが、かといって遅れを取るわけでもない。
書類に黙々と目を通すがふいに書類に影が差した。

「・・・何者だ」
「・・・」

背後から忍び寄る影は何だ。
「答えよ、間者か」
「・・・」
葛葉はこんな時に居ないのか。
小さく付いた舌打ちが後ろの影がぴくりと反応する。

「貴様が何処の間者かは存ぜぬが・・・」
「・・・」

「葛葉!居るんだろう!出て来い!」
「・・・」
蝋燭の明かりがふっと息の根を止めるように消えた。

「主様、」
「ああ・・・」
呼んだと同時に降り立った影は一瞬にして背後の忍びの喉笛を掻き切った。

「何故すぐに来なかった」
「・・・あんなにもすんなりと、お暇を許可されまして」
拗ねているのか。
そう聞きたくても聞けない、そんなに親しい間柄でもない。
しかし、答えるものは一つだけあった。
「言っただろう、二度目はないと」
「・・・?」
「俺がお前を要らなくなるその日は―、俺が死ぬ時のみだ」
暇は許さない、遠まわしに告げたその言葉は葛葉に伝わったらしい。
暗闇でも月明かりに照らされて僅かに上がった口角がそれを告げるが、それはすぐにまた真一文字に結ばれた。

「私は、主様をお慕いしております」
「わかっている」
「私は―、」
「諦めろとは言わない」
けれど、
「今はまだ、俺が答える時期ではない」
そう答えると、あいつは困ったような嬉しいのやらと複雑な表情をして笑った。
俺には目的がある。
この国を守りきる力が、強さが必要なのだ。
―色恋に現を抜かす余裕はまだ無い。
「お傍に―・・・」
頭を垂れて、初めて出会った時のように膝をつく。
「これを始末しろ―・・・葛葉」
「御意に、景月様」
嬉しそうに弾んだ声で葛葉は答えた。
宵の月が雲から顔を出してぼんやりと二人を照らした。
一つの影は一瞬で消え去り、もう一つの影はその場に佇んだまま微動だにしない。
しかし、口元は小さく弧を描いていた。






【主従関係で従の片思いお題】


(主従両方の言葉から組み合わせ)


【お題元サイト】http://have-a.chew.jp/on_me/1.html 確かに恋だった