出来ればもう一度だけ、言いたかった。
欲を言えば、何度も何度も、死が二人を分かつまで、ずっとずっと、同じ景色を眺めて
時間がくるまで、笑いあって泣いて、時には喧嘩して。
そんな小さな日常が。
けれどそんな小さな日常はただの憧れになって、
彼女の中の私はもう今は小さな小さな隅に追いやられてしまって、
もう彼女の物語には、私はいないのだろう。
もう少し、
もう少しだけ、時間がほしかった。
さようなら、だとか、一生分の何かを伝えたかった。
届かなかった。
彼女にとっての偽者の赤でしかなかった、糸。
私にとっての本物であった糸。
どこで間違えちゃったのかな。
私は、この糸が朱色であっても構わなかったのに。
彼女は、そうじゃなかったんだ。
最後に小さく聞いた言葉。
「私のこと、ちゃんと好きだった?」
聞かなければよかった。
答えを聞いて、何度もその言葉によって生にしがみついた。
生きたい、生きたい、生かせて。
がむしゃらに、這い蹲ってでも、生きたかった。
―でも、もう無理みたいなんだね。
とうとう、彼女に私は忘れられてしまったから。
もう、此処には居られないんだね。
もう、彼女は寂しくないなら、大丈夫だね。
ふわりふわりと宙を舞う私の体。
ゆらりゆらりと滑るようにゆれる足。
彼女には届かない声、言葉、魂。
もう私には、必要ないモノでしかない。
彼女はもう大丈夫、そう思うとほんの少し心が痛くて温かい。
風がふわりと街の人々を唆す。
それを私は小さく笑い、やがて私を照らすことのない太陽を眺めた。
―もう40年にも、なってしまう。
彼女が私を思い続けて40年、
私が此処で掻き消されて40年、
もし私が生きていたら、お互いヨボヨボのお婆ちゃんになって笑い合えただろうか。
今日は天気がいいから洗濯物がよく乾くね、だとか、昨日のドラマはこうだった、だとか。
そんな他愛もない話をできただろうか。
なんだか寂しくなってきてしまった。
駄目だなあ、もう行かなくちゃ。
彼女は時間が来るまで此処でずっと待ち続けて、
私は行くべき場所へ向かって
ちょっとだけ先に、行くね。
私は少し寂しいけれど、大丈夫。
私だけが痛いなら、それも構わない。
彼女が痛くならないで済むのなら、それはそれで、いいの。
またね。
大好きだよ、
小さな別れ
(誰かが私を小さく呼んだ声がした)
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